日本文化の重層性

 

日本史の時間で日本の文化や思想について、人名や作品名など非常に細かいことまで教えられる。もちろん、そうしたことも大切である。しかし、歴史は500年1000年単位でみることも大切である。顕微鏡で見ることも必要だが、望遠鏡でみると初めて見えてくる世界もある。

 日本文化の特徴を一言で言うならば、基底部に日本独特の思想をもち、その上に仏教儒教西洋文化といったさまざまな外来思想が取り入れられ、重層性を形成しているという点である。

 

(1)古代の日本人の考え方

 古代の日本人の生き方は、「祓い(はらい)」や「(みそぎ)」や「清明心」という言葉で象徴される。悪いことをしても禊をおこなえば洗い清められ、穢れは祓いによって取り除かれる。汚い生き方を潔しとせず、嘘いつわりのない生き方をよしとした。八百万の神信仰とともに、これらの伝統的な考え方は、日本人の行動の規範として現代にも脈々と受け継がれている。

 

(2)奈良・平安・鎌倉時代

6世紀になると日本に仏教の影響が入ってくる。一般に人々が宗教を信じる動機は「貧・病・争」である。金ぴかに塗られた仏像は異国情緒たっぷりで、いかにも「効き目」がありそうだと感じられたことだろう。仏教という外来思想を掲げた蘇我氏が日本の神々を掲げる物部氏を打ち破り、蘇我氏が聖徳太子と結び付いて日本に仏教文化が定着する。

奈良時代の仏教は個人を救済するための宗教ではなく、貴族や天皇に保護され権力者のために祈る宗教という点に特徴がある(例外は行基)。
平安時代に入ると天台宗や真言宗が現れたが、両者とも天皇や貴族と結び付くことによって国教ともいうべき地位を獲得した点では、奈良時代と同じといえる。

 日本の仏教が転機を迎えたのは鎌倉時代に入ってからである。仏教が社会の底辺層へと急速に信者を拡大したのだ。信者が急拡大した理由の第一は、天皇・貴族の没落とともに、比叡山や高野山の権威が失われたことによる。第二に、念仏や座禅など、一般庶民でもおこなえる易行によって誰でもが救済されるという新しい仏教が登場したことによる。

 当時の仏教は圧倒的に比叡山(天台宗)の教えが強かった。比叡山では仏になるためには、経を唱え、坐禅をし、山を駆けめぐるなど「自力」であらゆる修行を実践しなければならなかった(今でも千日回峰という命をかけた修行がある)。貴族たちは浄土へ行くために寺を建て、寄進をし、仏像を作った。また、人間には聖人と凡夫があると考えていた。

しかし、厳しい行をおこなえるのは生活にゆとりのある一部の人だけであり、一般庶民には到底不可能である。法然や親鸞、道元、日蓮はこれまでの行のあり方を批判し、誰でもが行える易行を説いた。

一心に「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽に往生できると説く法然の教えや、他力(=仏力)本願によって悪人も浄土に行けると説く親鸞の教えは革命的であり、貴族たちにすれば「非常識な教え」「トンデモ論」であったに違いない。こうして、易行と人間の平等を説く鎌倉仏教は一般庶民に広く受け入れられ、日本の思想史の中のハイライト的存在になっていったのである。

(注)800年前の悪人というのは仏と比較してのことだから、この定義からすれば人間皆悪人(=アホ)ということになる。

仏教は日本の宗教だけではなく、精神生活や美意識にも大きな影響を与えている。仏教の無常感は、一瞬の時の移ろいを肯定的にみる態度を生み出し、禅宗はわびの境地を理想とする茶道の精神を生みだした。

現在の仏教のおおよその信者数は次のとおりである。

@日蓮正宗 1636万人 ← 創価学会

A浄土真宗 1300万人

B曹洞宗   750万人

C真言宗系  730万人

D浄土宗   600万人

 

 

(3)江戸時代

 江戸時代に入ると儒教が大きな影響をもつようになった。儒教とは孔子・孟子の教えである。儒教の特徴は、子の父に対する服従をあらゆる人倫の基礎に置き、君臣(→義)、夫婦(→別)、長幼(→序)において、上下尊卑の別を説く。

 士農工商の身分制度を導入した江戸幕府にとって、平等を説く仏教より儒教(儒学)の教えのほうが都合がよかったことは言うまでもない。儒学には幕藩体制の思想的支柱となった朱子学派のほかに、陽明学派古学派などがある。

 一方、こうした外来思想に異を唱えたのが国学である。本居宣長は儒教の作為的で小賢しい生き方を「漢意(からごころ)」と批判し、自然のままに生きる真心の重要性を説いた。国学とは日本版ルネサンスと考えると分かりやすい。

 ルネサンスは古代ギリシャ文化を「生」、中世キリスト教文化を「死」、そして、ギリシャ文化の生き生きした精神を「再生」させたものと表現されることがある。

 日本の国学をこれになぞらえれば、古代人の生き方を「生」とし、仏教や儒教は古の道を歪曲したものとしてこれを排除し、古代人の生き方を復活させようとしたものと考えられる。国学は当初、イデオロギー性はあまりなかったものの、のちに国粋主義となり政治的・宗教的色彩を強めていった。

 このほかに、庶民の思想に影響を与えた人物として、商人の営利活動を肯定した石田梅岩(石門心学=日本のカルヴァン)、「自然世に帰れ」と主張し農民を擁護した安藤昌益(日本の生んだルソー?)、などがいる。

 

(4)西洋文明との出会い

明治維新後、西洋文明が急速に流れ込んできた。ヨーロッパ思想を日本に取り込むうえで貢献した代表的人物として福沢諭吉、中江兆民、夏目漱石、内村鑑三などがいる。

福沢諭吉は「人に4等あり」とする儒学の非合理性を説き、「一心独立して、一国独立す」として、実学によって国民一人ひとりが独立自尊の精神をもつべきだと主張した。

また、中江兆民は当時の藩閥政府に対して、自由民権運動を展開した。兆民はルソーの『社会契約論』を翻訳したことから日本のルソーと呼ばれる。

一方、夏目漱石は、日本の伝統的共同体と西洋の個人の自我の確立の葛藤を描いた。漱石を語る時「則天去私」(『天に則り私を去る』)という言葉が使われる。漱石は、天は自然であり、不自然は自然には勝てないとして,我意に捉われない自然な生き方を説いた。

さらに内村鑑三は、武士道の無私の精神がキリスト教の教えに似ているとして、キリスト教と武士道の融合を試みた。彼は『余は如何にして基督信徒となりし乎」を著し、無教会主義による日本的キリスト教の伝道に努めた。

 

 

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